私達国家国民は国の内外に「被害者」を出しながらも、殆どの人が「善意」に生きていると思っている。この映画に映る『分断』を見て、私達国民個人の心は動く。国民は国家より温かい。この個人の「温もり」を政治に替える事が、今を生きる私達の命題だ。 伊勢谷友介 俳優、映画監督、株式会社リバースプロジェクト 代表
難民も、福島原発の被災者も、香港で中国政府と戦う若者も遠くのニュースの中の誰かではなく、私の大切な友人や家族と変わりない一つの命であり人生なんだ、ということをその命に重さの大小も優劣もない、ということを考えさせてくれたのは堀潤さんでした。 新聞記者の役を演じる時参考にお話を聞かせて頂いたのですが、「より良い世界があるなら見てみたい、そう思って活動をしている」と仰っていた言葉が忘れられません。 玄理 俳優
無知と先入観が、分断の裂け目をつくりだす。 人間はモノガタル動物。 そして、人間は一人 一人がモノガタリの結晶だ! この映画は、分断された一人一人が、主人公。 彼らのモノガタリに向き合って下さい。 あなた自身が、分断されたモノガタリの主人公に、ならないためにも。 別所哲也 俳優
「遠い国のことなんてどうでもいい」という言葉の本質は、物理的な距離ではなく「自分とは違う」ものへの心の隔たりである。その隔絶を乗り越えるための第一歩を踏み出させてくれる映画です。 安田純平 ジャーナリスト
客観性という鎧を脱ぎ捨てる。どこに寄り添い身を置くかで、世界の見え方が変わってくる。当事者意識を欠落させた、デジタル時代のメディア状況に対峙する勇気ある冒険。 堀潤が目指す新しいジャーナリズムの輪郭が明確に見えてきた。 大友啓史 映画監督
大きな世界の激流に飲まれて消えそうになりながら、それでも前を向いて生きる小さな人たちの声を丁寧に集めた“器用で不器用”なジャーナリストの記録。絶望から生まれる希望の一端がこの映画にはしっかりと収められている。 津田大介 ジャーナリスト/メディア・アクティビスト
ガザから福島、ピョンヤンから沖縄、ロスからヨルダンなど、国境を超越し、無関係に思える地域と地域を結びつけ、僕たちの持つステレオタイプを瓦解させ、現場に生きる人々の体温を伝えてくれる・・・堀潤は貴重な、貴重なジャーナリストだ! 舩橋淳 映画作家
わかりやすく切り取られた映像は世界の分断を加速する。だが、堀はそれを許さない。対立する群の中間に立ち、その両側へレンズを向ける。ここに映し出されているのは、離れていく世界を繋ぎとめようとする堀の覚悟そのものなのだ。 浅生鴨 作家
分断がガラスでいうヒビだとしたらここには沢山の誰かの心がバキバキとヒビ割れている音する。 メディアが小さすぎて拾わない音。その音は仕方のない犠牲だというやつがいる。おれはそれを許さない。 村本大輔 お笑い芸人 ウーマンラッシュアワー
ジャーナリズムとは何か…東日本大震災後、大きな決断とともに堀潤が探し続けた答えが、ここにある。ニュースが伝えない現場の声をリアルタイムに発信し続けること、それこそが彼が追い求めてきた「メディアとしての使命」なのだ。 フィフィ タレント
社会の病みを癒す第一歩は情報収集。理解も解決も知識から始まるから。 この映画で、ずば抜けた取材力を持つ堀潤が分断の現場に私たちを誘う。 体を張る上、心まで張ってしまう名ジャーナリスト堀潤についていこう。 パックン お笑い芸人
マジックショーだ、これは!ウサギではなく、新聞記事をマジックハットに入れて出てきたのは、ニュースの裏側。世界共通のローカルな物語や政治問題、紛争の背景といったリアルな現場だった。マジシャン堀潤さんの命がけの取材も。発見がたくさん!ぜひ〜 マシュー・チョジック タレント・ライター
人を思う優しさを持って生きて欲しいと、不条理のただ中の、難民の子どもたちに、思う。あらゆる分断を埋める果てしない作業が、その優しさに支えられていることを、映画の視点が苦しくも温かく、語りかけてくるから。 松永晴子 NGO 国境なき子どもたち ヨルダン現地事業総括
正しい事は安全な事ではないって言葉にふるえる。怖い。 安全でいたい。でも正しくもありたい。 どちらかしか取れないんだろうか。本当にそうなんだろうか。 何故安全で正しいができないんだろうか。 正しくないは安全で、正しいは危険。 なんでそうなるんだろうか。 面倒くささに揚げ足を取られる毎日が少し変わった。 やついいちろう 芸人・DJ・俳優
現場に足を運び、その大気の震えに全身を晒す。心が揺れるように、レンズが揺れる。 何度も再会を重ねることで、だんだんと、大きな主語の仮面は剥がれ落ち、尊厳を持ったひとりの人間が浮かび上がる。分断を生む、想像力の空白を埋めるドキュメント。 佐藤慧 フォトジャーナリスト・ライター
海の向こう、私たちのすぐ隣、ばらばらのピースのような出来事が、見進めるごとにつながっていく。この映画を通して私たちが「出会う」人々それぞれが問いかける。遠くの痛みが他人事ならば、近くの悲しみにも気づけないのだ、と。 安田菜津紀 フォトジャーナリスト
「わたしは」って、誰のこと? 堀潤1人のこと?…と、異色のタイトルを見てまず思う。やがて、あの美しいラストシーンが終わって静かにエンドロールが現れた時、僕は深く納得する。 そこに次々と現れる名前は、たくさんの《わたし》。 登場人物だったり、市民メディアの映像提供者だったり、…それは群れとしての“私たち”ではなく、粒だった一人ひとりの《わたし》。 そうなんだ、そんなたくさんの《わたし》の共通の思いが、この映画のタイトルなんだ。堀潤は、その結節点になろうとしているんだ。 今も、きっとこれからも。 下村健一 令和メディア研究所主宰・インターネットメディア協会理事
カメラは分断の現場に生きる人たちを映し、その声を伝える。修復への特効薬は示されない。それでも「分断を許さない」と誓い、諦めない。ストレートな題名と映像で、視聴者にもそう訴える。 古田大輔 ジャーナリスト・メディアコラボ代表
見ているのに見えていない現実、できることなら見たくない残酷。 テレビとネットのハイブリッド・堀潤が実現した究極のジャーナリズム映画は、 私たちが生きる時代の真実を容赦なく突きつけ、優しく問いかける 長野智子 キャスター
取材行為に価値がない、誰も頼んでいない、との認定が「自己責任論」だ。「大き過ぎる主語」を嬉々として受け入れる我々の国民性は奇異である。 「受け取り手を失った真実はどこに行くのだろう」堀潤さんの叫びが全編に響き渡る。 初沢亜利 写真家
涙を流しながら人に寄り添い、話を聞くジャーナリスト堀さんの意志。 この映画を見終わった後に流れた私の涙は、どんな涙だっただろう?色々な感情が残った。知らないことが多すぎて、知ろうとしなかったことも多すぎた。日本のことでさえも。この映画にでてきた多くの場所で、毎年あの桜のように綺麗な花が見れることを。 キセキミチコ 写真家
この映画を見終えたわたしはもう何日も、内側から溢れてくる言葉にならない想いを、ただただ飲み込んでいます。どんな言葉も軽すぎて、言葉が見つからない。 わたしのように 、何も感じていないのではなく、何と言っていいのか分からず黙っている人が他にもいるのではないかと思います。 でも、なかった事になってしまう。何も言わなければ。 現実に起こっている事を、危険に身を預けてまで伝えてくれる人がいます。知ったあと、わたしは何をすることができるのでしょうか。わたしには、見守ることしかできないのでしょうか。言葉にすることすらこんなに難しいというのに、分かりあうのに一体どんな方法があるのでしょうか。 そんな疑問ばかりが湧いてきてわたしが立ちすくんでいる間に、世の中はどんどん、どんどん進んでいってしまう。「大きな声」を持つ者のみによって決定されていくのをただ黙って見つめる、そんな事にならないようにするには、わたしたちはどうすればいいのでしょうか。 七咲友梨 写真家
世界のあらゆる出来事を身近に感じられるかは、ひとりひとりの「私」の感受性にかかっている。 世界で一番ちいさな主語、「私」。平壌の学生が「戦争は人に酷いです」と言う。 そうだ。基地でも原発でも香港の問題でもなんでも同じだ。 人に酷いことをしてはならない。それを私の尊敬する友人、堀潤は伝えているのだろう。 ワタナベアニ 写真家
原発事故の後、避難という行動をめぐり人々は3つに割れた。「賠償がいっぱいもらえて、あんたらはいいね」――強制避難区域の被害者が避難先での住民の言葉に怯える。子どもを守ろうと沖縄に「自主的」母子避難をし、夫婦が離婚する。他方、お金がなくてそのふがいなさのせいで、子や孫を一時避難もさせられなかったと自分を責める人すらも。 放射能を恐れる思いにも、避難できないのならここで生きるしかないと覚悟する心細さや生活苦に背を向け、再稼働の邪魔だとばかりに幕を引き被害救済を打ち切る政府と東電。 分断を仕掛ける側の不純な動機が強まればそれだけ、それに立ち向かう私たちの力も鍛えられ強くなる。 中島孝 「生業を返せ、地域を返せ!」福島原発訴訟原告団長
この作品は世界の分断を憂いたものではない。個との無対話を憂いたものである。 「私達は」「我々は」メディアは主語を大きくして、本来そこに居るはずの個人をぼかす。 だが本質は常に個との対話にある、という当たり前の事実をこの作品は問う。珠玉の傑作。 古谷経衡 文筆家
わたしたちは「わたしたち」をつくる。その「わたしたち」は”違う”ひつようがある。 じゃないとわたしたちは「わたしたち」になれないからだ。 だから「かれら」をつくる。 「かれら」は「わたしたち」と”違う”のだ。 ”違う”のだからわたしたちは「わたしたち」だけをかんがえていればいい。 「かれら」が”違う”ことをもっとさがそう。 そうすれば「わたしたち」はもっとつよくなれる。 そうして「かれら」が「やつら」になる。 「やつら」なんてじゃまだ。 「やつら」なんていないほうがいい。 根絶やしにしてもいいかも。 「かれら」も「わたしたち」をつくりはじめる。 伊勢崎賢治 ジャズトランペッター・東京外国語大学教授
堀さんが何と戦っているのか、やっとわかった。僕たちはすぐ、知らずに決めつけたり、安易な結論に逃げたりしてしまう。 「分断」は、問題の現場じゃなくて、そんな僕たちの弱さの中で起きていたんだ。 若新雄純 ㈱NEWYOUTH代表・慶應大学特任准教授
「わたしは分断を許さない」見終わった!涙してみました。 誰かの「幸せ」の反対側には「不幸」が存在している。 人の不幸の上に成り立つ幸せを癒すには、幸せを少し手放し、 みんなの物にする「優しさ」って本当に重要だなと改めてこの映画をみて 再認識しました。 最後の桜のシーンを見た時に「自然は分け隔てなく人を感動させる凄い物だな」と。 そんな分断の間に咲く花のような物を我々は作っていかないといけないなと。 本当に素晴らしい作品でした。 高橋賢次 恵比寿新聞編集長
私達国家国民は国の内外に「被害者」を出しながらも、殆どの人が「善意」に生きていると思っている。この映画に映る『分断』を見て、私達国民個人の心は動く。国民は国家より温かい。この個人の「温もり」を政治に替える事が、今を生きる私達の命題だ。
片方の手は握手のために取っておかねば。
相手が誰であっても。
やっかみに近い気持ちにさえなった。堀潤氏の厳しい着眼力と、何よりもすさまじい取材エネルギーに対してである。特に福島や沖縄問題では、私自身の捉え方の甘さを痛感させられた。
難民も、福島原発の被災者も、香港で中国政府と戦う若者も遠くのニュースの中の誰かではなく、私の大切な友人や家族と変わりない一つの命であり人生なんだ、ということをその命に重さの大小も優劣もない、ということを考えさせてくれたのは堀潤さんでした。
新聞記者の役を演じる時参考にお話を聞かせて頂いたのですが、「より良い世界があるなら見てみたい、そう思って活動をしている」と仰っていた言葉が忘れられません。
無知と先入観が、分断の裂け目をつくりだす。
人間はモノガタル動物。
そして、人間は一人 一人がモノガタリの結晶だ!
この映画は、分断された一人一人が、主人公。
彼らのモノガタリに向き合って下さい。
あなた自身が、分断されたモノガタリの主人公に、ならないためにも。
「遠い国のことなんてどうでもいい」という言葉の本質は、物理的な距離ではなく「自分とは違う」ものへの心の隔たりである。その隔絶を乗り越えるための第一歩を踏み出させてくれる映画です。
客観性という鎧を脱ぎ捨てる。どこに寄り添い身を置くかで、世界の見え方が変わってくる。当事者意識を欠落させた、デジタル時代のメディア状況に対峙する勇気ある冒険。
堀潤が目指す新しいジャーナリズムの輪郭が明確に見えてきた。
大きな世界の激流に飲まれて消えそうになりながら、それでも前を向いて生きる小さな人たちの声を丁寧に集めた“器用で不器用”なジャーナリストの記録。絶望から生まれる希望の一端がこの映画にはしっかりと収められている。
ガザから福島、ピョンヤンから沖縄、ロスからヨルダンなど、国境を超越し、無関係に思える地域と地域を結びつけ、僕たちの持つステレオタイプを瓦解させ、現場に生きる人々の体温を伝えてくれる・・・堀潤は貴重な、貴重なジャーナリストだ!
視点はひとつだけじゃない。正義もひとつだけじゃない。分断を防ぐには、そのことを深く理解するしかない。
わかりやすく切り取られた映像は世界の分断を加速する。だが、堀はそれを許さない。対立する群の中間に立ち、その両側へレンズを向ける。ここに映し出されているのは、離れていく世界を繋ぎとめようとする堀の覚悟そのものなのだ。
分断がガラスでいうヒビだとしたらここには沢山の誰かの心がバキバキとヒビ割れている音する。
メディアが小さすぎて拾わない音。その音は仕方のない犠牲だというやつがいる。おれはそれを許さない。
妻の故郷は、福島の相馬。
生まれ育った海辺の一軒家は、今はもうない。
我が家にも、「小さな主語」の物語が幾つかあった。
ジャーナリズムとは何か…東日本大震災後、大きな決断とともに堀潤が探し続けた答えが、ここにある。ニュースが伝えない現場の声をリアルタイムに発信し続けること、それこそが彼が追い求めてきた「メディアとしての使命」なのだ。
社会の病みを癒す第一歩は情報収集。理解も解決も知識から始まるから。
この映画で、ずば抜けた取材力を持つ堀潤が分断の現場に私たちを誘う。
体を張る上、心まで張ってしまう名ジャーナリスト堀潤についていこう。
マジックショーだ、これは!ウサギではなく、新聞記事をマジックハットに入れて出てきたのは、ニュースの裏側。世界共通のローカルな物語や政治問題、紛争の背景といったリアルな現場だった。マジシャン堀潤さんの命がけの取材も。発見がたくさん!ぜひ〜
人を思う優しさを持って生きて欲しいと、不条理のただ中の、難民の子どもたちに、思う。あらゆる分断を埋める果てしない作業が、その優しさに支えられていることを、映画の視点が苦しくも温かく、語りかけてくるから。
正しい事は安全な事ではないって言葉にふるえる。怖い。
安全でいたい。でも正しくもありたい。
どちらかしか取れないんだろうか。本当にそうなんだろうか。
何故安全で正しいができないんだろうか。
正しくないは安全で、正しいは危険。
なんでそうなるんだろうか。
面倒くささに揚げ足を取られる毎日が少し変わった。
現場に足を運び、その大気の震えに全身を晒す。心が揺れるように、レンズが揺れる。
何度も再会を重ねることで、だんだんと、大きな主語の仮面は剥がれ落ち、尊厳を持ったひとりの人間が浮かび上がる。分断を生む、想像力の空白を埋めるドキュメント。
海の向こう、私たちのすぐ隣、ばらばらのピースのような出来事が、見進めるごとにつながっていく。この映画を通して私たちが「出会う」人々それぞれが問いかける。遠くの痛みが他人事ならば、近くの悲しみにも気づけないのだ、と。
「わたしは」って、誰のこと? 堀潤1人のこと?…と、異色のタイトルを見てまず思う。やがて、あの美しいラストシーンが終わって静かにエンドロールが現れた時、僕は深く納得する。
そこに次々と現れる名前は、たくさんの《わたし》。
登場人物だったり、市民メディアの映像提供者だったり、…それは群れとしての“私たち”ではなく、粒だった一人ひとりの《わたし》。
そうなんだ、そんなたくさんの《わたし》の共通の思いが、この映画のタイトルなんだ。堀潤は、その結節点になろうとしているんだ。
今も、きっとこれからも。
カメラは分断の現場に生きる人たちを映し、その声を伝える。修復への特効薬は示されない。それでも「分断を許さない」と誓い、諦めない。ストレートな題名と映像で、視聴者にもそう訴える。
「わたしは人間を諦めない」
それでも人間を信じ抜くんだという
堀さんの決意が伝わった。
見ているのに見えていない現実、できることなら見たくない残酷。
テレビとネットのハイブリッド・堀潤が実現した究極のジャーナリズム映画は、
私たちが生きる時代の真実を容赦なく突きつけ、優しく問いかける
私も歩き回ってきた世界の「紛争地」の映像。でも既視感はない。それは現場に立った堀潤の、「わたし」を主語にしての、分断を迫る力に対する「許さない」決意のなせるもの。敬服。
取材行為に価値がない、誰も頼んでいない、との認定が「自己責任論」だ。「大き過ぎる主語」を嬉々として受け入れる我々の国民性は奇異である。
「受け取り手を失った真実はどこに行くのだろう」堀潤さんの叫びが全編に響き渡る。
涙を流しながら人に寄り添い、話を聞くジャーナリスト堀さんの意志。
この映画を見終わった後に流れた私の涙は、どんな涙だっただろう?色々な感情が残った。知らないことが多すぎて、知ろうとしなかったことも多すぎた。日本のことでさえも。この映画にでてきた多くの場所で、毎年あの桜のように綺麗な花が見れることを。
この映画を見終えたわたしはもう何日も、内側から溢れてくる言葉にならない想いを、ただただ飲み込んでいます。どんな言葉も軽すぎて、言葉が見つからない。
わたしのように 、何も感じていないのではなく、何と言っていいのか分からず黙っている人が他にもいるのではないかと思います。
でも、なかった事になってしまう。何も言わなければ。
現実に起こっている事を、危険に身を預けてまで伝えてくれる人がいます。知ったあと、わたしは何をすることができるのでしょうか。わたしには、見守ることしかできないのでしょうか。言葉にすることすらこんなに難しいというのに、分かりあうのに一体どんな方法があるのでしょうか。
そんな疑問ばかりが湧いてきてわたしが立ちすくんでいる間に、世の中はどんどん、どんどん進んでいってしまう。「大きな声」を持つ者のみによって決定されていくのをただ黙って見つめる、そんな事にならないようにするには、わたしたちはどうすればいいのでしょうか。
世界のあらゆる出来事を身近に感じられるかは、ひとりひとりの「私」の感受性にかかっている。
世界で一番ちいさな主語、「私」。平壌の学生が「戦争は人に酷いです」と言う。
そうだ。基地でも原発でも香港の問題でもなんでも同じだ。
人に酷いことをしてはならない。それを私の尊敬する友人、堀潤は伝えているのだろう。
原発事故の後、避難という行動をめぐり人々は3つに割れた。「賠償がいっぱいもらえて、あんたらはいいね」――強制避難区域の被害者が避難先での住民の言葉に怯える。子どもを守ろうと沖縄に「自主的」母子避難をし、夫婦が離婚する。他方、お金がなくてそのふがいなさのせいで、子や孫を一時避難もさせられなかったと自分を責める人すらも。
放射能を恐れる思いにも、避難できないのならここで生きるしかないと覚悟する心細さや生活苦に背を向け、再稼働の邪魔だとばかりに幕を引き被害救済を打ち切る政府と東電。
分断を仕掛ける側の不純な動機が強まればそれだけ、それに立ち向かう私たちの力も鍛えられ強くなる。
この作品は世界の分断を憂いたものではない。個との無対話を憂いたものである。
「私達は」「我々は」メディアは主語を大きくして、本来そこに居るはずの個人をぼかす。
だが本質は常に個との対話にある、という当たり前の事実をこの作品は問う。珠玉の傑作。
真実は一つ。どんな時も人は生きようとする。そこに国籍、人種、性別の境界線はない。
わたしたちは「わたしたち」をつくる。その「わたしたち」は”違う”ひつようがある。
じゃないとわたしたちは「わたしたち」になれないからだ。
だから「かれら」をつくる。
「かれら」は「わたしたち」と”違う”のだ。
”違う”のだからわたしたちは「わたしたち」だけをかんがえていればいい。
「かれら」が”違う”ことをもっとさがそう。
そうすれば「わたしたち」はもっとつよくなれる。
そうして「かれら」が「やつら」になる。
「やつら」なんてじゃまだ。
「やつら」なんていないほうがいい。
根絶やしにしてもいいかも。
「かれら」も「わたしたち」をつくりはじめる。
堀さんが何と戦っているのか、やっとわかった。僕たちはすぐ、知らずに決めつけたり、安易な結論に逃げたりしてしまう。
「分断」は、問題の現場じゃなくて、そんな僕たちの弱さの中で起きていたんだ。
「わたしは分断を許さない」見終わった!涙してみました。
誰かの「幸せ」の反対側には「不幸」が存在している。
人の不幸の上に成り立つ幸せを癒すには、幸せを少し手放し、
みんなの物にする「優しさ」って本当に重要だなと改めてこの映画をみて
再認識しました。
最後の桜のシーンを見た時に「自然は分け隔てなく人を感動させる凄い物だな」と。
そんな分断の間に咲く花のような物を我々は作っていかないといけないなと。
本当に素晴らしい作品でした。